過去の不二032 - 臨済宗青年僧の会

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過去の不二032

過去の不二
【032号】
【第32号】:昭和63年4月発行 

大分養賢僧堂師家 片岡省念老師 【掲載当時】


「しっかりと 願心をもて!!」


養賢寺へ住職したいきさつからお話し下さい。

佐伯の養賢寺は、私のおじいさんがここの弟子でしてね、先祖の墓もここにあります。山田無文老師から養賢寺へどうかという話がありました。私は、僧堂から外へ出るのがいやでしたから、何度も断りにいったのですが、老師が、先祖が呼んでるから行け!ということで、急に決まりました。僧堂から袈裟文庫をかついでそのままここへ来ました。




老師はお寺で生まれたそうですが、僧侶になるという葛藤はありませんでしたか。

ありました。やっぱり、坊さんになるつもりはなかったですからな。僧堂へ入るきっかけの一番は、病気でしたな。病気で二、三年ブランクがありました。胸をやられて、やせてました。その間に、和尚がなくなったりしまして、五十五才でした。掛塔は、病気が治ってからです。老師によくいわれたですよ。僧堂へくる奴は、頭が足りんか、体が弱いかどっちかじゃって。私は、四十四キロしかなかったでず。僧堂へ入って、二、三年たってもう一度病気しましたけれど、その時は、そんなにひどくなかったものですから、二ヵ月ぐらいで僧堂へ帰りました。




お父さんの思い出は。

子供の頃よく親父から、何もせんだったらお経本もってこいといわれて、お経を間違えると火ばしでたたかれたことがあります。やさしい父だったですが、それでもお経の時は、やりおったですわ。父は、戦前学校の先生をしておりました。戦時中、翼賛壮年団長というものをやって、戦後公職追放になりました。先生の退職金が、八千円か九千円でした。大金だといって喜んでたら貨幣価値が、がらっと変わりまして、それが紙くずみたいになってしまいました。それから戦後、軍需工場から若い女の子が帰ってくる。青年達も帰ってくる。こういう人達に、母はお針を教え、父は、お茶とお花を教え、夜はお経をみんなに教えていました。その時私も一緒にお経を覚えました。






お母さんはお元気ですか。

元気です。毋のことで一番の思い出は、最初に暫暇した時、帰ることをハガキに書いて送ってあったものですから、樽見線で帰ってきたと思ったんでしょうな。毋が、畑から息せき切って走って迎えてくれたことが、一番印象に残っております。





今、後継者で困っている寺が多いのですが、どう思われますか。

小さいお寺は、どうしても後継者がないですね。

一人でおれば托鉢やったって何したって生活できますよ。家庭もったらできません。家庭をもてば、人並みの生活をさせてやるのもこれはあたり前のことですからね。俺と一緒に托鉢して、お粥すすってくれっていうんだったら家庭をもたん方がいい。私は、二足のわらじをはくんだったら、先生になるのが。一番いいと思うんですけどな。養賢寺へ通参する近くの住職で学校に勤めていますが、僧堂へ行けなくて、でも後を取らなければならないということで、この大接心から夕方にきて坐って帰ります。その先生にも話したことですが、

「これからの時代を担っていく子供たちの教育をするということは、坊さんには一番いい職業じやないかな」

って。これほどの教化の場所はないんじやないか。尊い仕事だと思います。法事や葬式も大事ですけど、教育というのは、大変意義あることだと思います。二足のわらじだといって卑下することはない。立派な宗教活勍だと思って、しかし労働者と思ったらそれはもうおしまいですわな。





僧堂から寺に帰ってきた時は多くの青年僧は燃えているのですが。

住職して問題なことは、願心をなくするということ。家庭を持つと、皆願心をなくしてしまう。それが一番問題ですね。願心のない坊さんは、ニセ坊さんだ。四弘誓願を毎朝よんでますけど、四弘誓願という願いというもの、坊さんである以上忘れちやいけないと思います。





檀家や一般の人に対して、どんな教化をされておりますか。

毎月一週間坐禅会と月に二回法話会をしています。ここは、行事が多くて、その時はおかげさまで花園婦人会の人たちが、ほとんどきり回してくれますからほんとに助かります。

正月、五月、九月の大般若会、十月の開山忌には、二百人余のお参りがあります。各人にお膳を出しますからお勝手元は大変です。それを婦人会の人たちが主にやってくれますので助かります。婦人会の人たちは、非常にお寺を大事にしてくれますね。雲水も大事にしてくれます。それから年二回は大掃除にきてくれるんですよ。本堂の内陣から鐘楼も全部ふきあげてくれます僧堂だからきてくれるんですね。どこの部屋でも入りやすいというんですよ。ここへはいっちゃいけないといプライベートの面がないでしょ。だからみんな自分のお寺って感覚ですわ。





青年僧に一言お願いします。

うちの雲水もそうだけど、祥福僧堂におった時もそうですがとにかく覇気がないのね。学校で教育うけて、僧堂へ入ってきても紳士が多くてね。よしやるぞ!という覇気が足りないですよね。臘八の前というのは、もうこれが最後という覚悟をしたもんですけど、今の人はもう臘八がすんだ後のことを考えてます。あれじゃいけませんな。いいことも悪いことも、もっと覇気をもってやってほしいと思います。

覇気というものが何か、ということを知らない世代になってきたかも知れませんね。この前中国へ行きましてね。秋の収穫期の終わった頃だったですけど。トラックに野菜を、キャベツや白茱をどんと積んで、その上に中国の人たちが乗っかってふっとばして行くでしょ。中国の人は、厚い物を着ているんじゃないです。人民服のようなものを着でふっとばして行く。我々は、バスの中にいて暖房入れてくれとかいうとるでしょ。それ見とって、こりゃ何か天変地異でも起こった時は、日本人は全部死に絶えるが、中国人は半分以上生き残るなと思ったですよ。中国は、「生きとる」って感じがしました。





今、一番大切なことは。

私は、行動でどうしたらいいとか、こうしたらいいとかいうんじやなくて、願心をもつこと。できてもできなくても願心だけは、しっかりともっていること。それから菩提心ですね。檀家の為になるというのなら、何でもやってあげようという、そういう気持ちさえあれば、人が集まってくるんじやないですか。私が、ここへ住職した時に、多い他家の中でどうしてやっていくか。お互いに真近でつきあうことが第一ですから、お経をよみにいつも行きました。昔から老師さんというのは、総代の家か金持ちの家しかこないという観念だったですから、私の顔をなかなか覚えてくれんのですよ。まさか老師さんがでてくると思ってないでしょ。ここに、檀家が多いものですから、よそのお寺の和尚さんをお願いしては、加担をお願いするのでね。「和尚さんはどちらのお寺ですか」と五、六年前まで聞かれましたよ。まいりましたけどな。まいったけど、やっぱりまず自分の顔を知ってもらうこと。それが第一でしたからね。


臨済宗青年僧の会(臨青)は昭和55年1月に「青年僧よ立ち上がれ、歩め」をスローガンに掲げ発足した全国組織です。
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