過去の不二067 - 臨済宗青年僧の会

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過去の不二067

過去の不二
【067号】
【第67号】:平成10年4月発行 

 天龍僧堂師家 
 撥雲軒佐々木容道老師 
 【掲載当時】




大本山天龍寺は、平成十二年に開山夢窓国師の六百五十年遠諱を迎えます。その記念事業の一環として、天龍僧堂が本山北門側に新築移転され、昨年5月落慶しました。木の香漂う新禅堂に新命老師をお訪ねし、お話を伺って参りました。




いずれはご自坊へ帰るおつもりで勉学されたのですか、それとも学問に専念されるおつもりでしたか。
「老師」 長男でしたから、いずれは自坊を継がなければいけないという思いと、仏教の勉強をしたい、修行をしたい、やるなら徹底してやってみたいという気持ちがありました。両方の気持ちが拮抗しながら進んできたと思います。現在では自坊の方もやっておりますが、中心は雲水の指導です。閑栖和尚が元気ですので、私はたまに自坊に帰って葬式とか法事をします。





ご自坊を継ぐことに抵抗を感じたことはございますか。
「老師」 そういうことを考えたこともあったかもしれませんが、目立つたかたちでは現われなかったというか、むしろ反対に、自分の置かれた立場を深めてみたい。自分の存在基盤、存在理由というものを追求してみたいという気持ちの方が強かったのです。お寺に生まれたということで。





お師匠様はどういう方ですか。
「老師」 ごく普通の和尚です。ただ師匠は、やはり禅僧は己事究明が中心で、宗旨の薀奥を究めるということが一番だということは思っていたようです。それは、師匠の師の影響を受けているのだと思います。その師とは、九州伊万里の円通寺僧堂のお師家さんをなさった森永湛堂という方で、更にその師匠が自坊の道栄寺から出た曹溪室・赤井義勇というお師家さんなのです。曹溪室は南禅寺の管長にもなりましたが、円通寺で雲水を指導して終わられた方です。その弟子の森永湛堂老師の許で私の師匠が修行をいたしまして、その方の影響を受けたようで、やはり、禅僧として世の中の役に立つような人を育てたいという気持ちはもっていたようです。そういう願いがありましたから、私がそのようになっていったのではないかと思います。





お若い時から学問はお好きでしたか。
「老師」 夢中になって勉強したのは広島大学に入ってからです。大学に入ってから専門の学問を徹底してやってみたいという気持ちになりまして、がむしゃらに本を読みました。専門のインド哲学に限らず、いろんな分野の事も勉強しました。





そのへんが総合大学の強みだと思いますか、逆に宗門の大学にそういう問題点かあるでしょうか。
「老師」 視野が狹くならない様にする必要はあると思います。総合大学ですと、幅広く色々な学者がいますから、文化系の人に限らず理科系の人とも接触があり、おもしろみはあります。又仏教に限らず、いろんな分野の書籍があるということがよかったですね。





それが仏教を深めることになっていきますか。
「老師」それもあると思います。総合的な視野からも仏教を見ていくという。仏教を仏教というところから見るのではなく、諸思想の中でとらえてみたり、宗教全体の中で仏教を見てみたり、時代の動きの中で仏教をどう把えるか。科学との比較やら、いろんな相対的な見方ができるという意味では非常によかったと思います。





諸宗教との対比で、仏教の長所短所は……。
【老師】  難しい質問ですが、仏教が覚の宗教だという事は大切な点だと思います。お釈迦様の生涯に具体的ですが、最初からドグマを定立せず、大疑から出発して、法執や我執を突き破って、本来の自己に目覚めていく所や、それが坐禅や念仏などの行を通して行なわれていく、体解されていく所は重要な点だと思います。それに、行の根底に、四弘誓願や本願などの願があることも重要だと思います。





雲水のご指導方針は……
「老師」  基本的には内観の道を教えてゆきます。日常生活の基本を大切にしながら、常に自分の足許を見つめれる様に指導しています。修行の過程では、とかく己事究明がないがしろになって、気持ちが外へ向っていくような傾向が出てきますので、できるだけそういう気持ちを内に向けるように促しております。外へ批判の眼を向けたら、修行にならない。自己自身に回光返照して、根本的な疑いを持ち続ける心構えを一生忘れてはいけないと。





ご修行時代、迷いを生じることがございましたか。
「老師」  やはり迷いというのは随分あります。例えば、このまま修行を続けていくか、それとも自坊に帰ろうかと。又このままでいいのだろうかというような。そういう迷いはありましたが、初心に立ち返って、平田老師の鉗鎚を受け、叱咤激励されてがんばってきたのです。そういう励ましや、まわりの支えあって初めて修行を続けることができると思います。





僧堂師家を交替されたのはいつ頃ですか。
【老師】  平成六年から花園大学の講師となって、それから師家職を委嘱されまして、平成七年に師家に就任しました。大学では、漢詩の鑑賞と作詩の実習を教えています。





大学生の気質はいかがですか。
「老師」  漢字に親しんでいない人が多いと思います。今の教育はそういうふうになっているのか知りませんが、もっと漢籍に親しむような機会を与える必要かあるのではないでしょうか。漢籍、特に褝籍に親しむ時間を多く持つべきだと思います。自分で訓註に頼りながらでも読めるような素養を身につける必要があります。過去の漢籍から学ぶことは多いですから。過去の祖師方の生き方や思想を学んで、それを自分の生きる指針にするということは、禅僧にとっては大事なことだろうと思います。一般的に言って、もっと日本の古典とか文化というものを見直して、基礎教育の場で重視していく必要かあるのではないでしょうか。教育そのものも問題で、どうしても知育偏重になっていますから、大切なものを自らの内に内観していく、自分の心を問うていくという勉強が全くない。情操教育ち少ないですし、倫理的なこともほとんど学ばない。宗教的な要素はほとんどない。それが現代の教育の傾向なのかもしれませんが、それでいいのかという疑問は持ちます。





修行と自坊と寺檀関係については
【老師】  寺擅関係は厳然としてありますし、それを変えるというのは難しいことだと思います。それはそれとして、その寺の和尚の在り方とか心構えとかが変わるしかないと思います。専門道場でしっかり修行して、その基礎を身につけて自坊へ帰ってゆくということが大切だと思います。短期間でもいいから真剣に修行して、その中で、坊さんの本来の在り方とはどういうことであるかということをしっかりと身につけることが大切だと思います。大乗菩薩道の理想的な在り方というのが、僧堂生活の中で実現されているのですから、作務でも托鉢でも坐禅でも、全力でやれと、雲水に言っているのです。その中で自分では気が付かないうちに身に付くものがあると思います。そういったものが将来力を発揮してくる。そういう基本に戻って始めて、檀家さんのいろんな人の気持ちも分かってくるのではないかと思います。妙心寺の御開山さまも、「その本を務めよ」とおっしゃいますね。「本」をまず身に付けて、そこから現実の場に出ていくことが大切だと思います。





一ヶ寺の和尚も、「その本を務める」ことにおいては雲水と変わりないですか。
「老師」生活は雲水と違っても、気持ちは雲水と同じでないといけないと思います。「上求菩提、下化衆生」の菩提心を忘れてはいけないと思います。一隅を照らすような周囲の人の役に立つようなことができれば、修行をした甲斐があると思います。それが禅定体験にもとずいてできるのなら、それはすばらしいことだと思います。I





僧侶の目標については
「老師」私は幼少の頃から自坊の先々代に当る佐々木泰道という方の話をよく聞かされました。その人の生き様から非常に影響を受けました。先々代は自坊を学校に開放しまして、校長になって沢山の学生を教育したのです。非常に枯淡な生き方をされて、一修行者のような生き方を生涯通されながら、沢山の人に影響を与えた方です。貯めたお金で困った人を助けたり、お金の無い学生には無料の夜学で教えたり、そういうような、非常に功徳を積まれた方です。そういう生き方に共感を覚え心を打たれました。目立たないかたちで田舎の一住職として終わった方ですが、沢山の人の為に尽くされたということです。血縁はありません。聞かされていただけですが、そういう人になってみたいと思いました。立派な人が一人出ると、後の人に与える影響は大きいと思います。ですから、和尚の在り方というのはしっかりしなければいけないと思います。口で言ったことには動かされませんが、どういう生き方をしたかということからは動かされるものがあります。私もそういう方々の生き方に影響されてきました。平田管長の生き様というものに随分影響を受けましたし、広島に居る頃には、仏通寺の藤井虎山老師の影響も受けましたし、浄土真宗の信仰に生きる方々の姿にも影響を受けました。いろんな人達の人柄、人格に動かされてここまで来れたと思います。禅寺に生まれてなかったら、それに、師匠の理解がなかったら、どういう生き方をしていたか分かりません。
長時間、ご教示ありがとうございました。

 
臨済宗青年僧の会(臨青)は昭和55年1月に「青年僧よ立ち上がれ、歩め」をスローガンに掲げ発足した全国組織です。
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