「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成28年1月31日〜】

 掲載号等  【第95号】:平成23年10月1日  

 萬仭軒 田中義峰老師
 虎渓僧堂  師家 【掲載当時】
 
 日々是好日 (その1)



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出家のきっかけ

 大阪の吹田で生まれて、二歳半のときに父が亡くなって、私と母と姉と三人で満州の張家囗へ行きました。そして、戦争が終わった昭和二十一年、満州から引き揚げてきて、母方の祖父母が京都に住んでおりましたので、そこへ戻り京都での生活が始まりました。
 だから小学校から中学、高校、大学までが京都住まいでした。工業高校機械科だったから、印刷の輪転機の技師として大日本印刷会社に入りました。あるとき、五月の連休に仲間と一緒に上高地の西穂高に登りました。本格的な登山ではないので、普通の登山靴をはいて、ピッケルも何も持たずに登りましたが、上高地にはまだ残雪があって、山頂から下るときに足が滑るわけです。そこで考えて、ビニールを尻に敷いて滑りだしました。だんだん調子に乗って、気持ちよくなってきたので、行きとは違う道を滑り出しました。それで背中にはリュックを担いでいるから加速がついてきて、今度は止まらなくなってしまいました。それでパッと前を見たら、もう先はまっ黒け。そこから先は完全に絶壁になっていました。ここで落ちていたら終わりでした。幸い一本木があっだので、これにつかまることができて命拾いしたわけです。このときにいっぺん死にかけ、これが一つの出家のきっかけになったわけです。




出家の始まり

 このままずっと印刷会社で仕事を続けていくか、それともほかの仕事をするか。大日本印刷は二部制だったので、一日おきの勤務でした。まる一日働くと翌日は休日になります。朝八時に出勤したら、あくる日の定時は午前の四時まで。その当時の大日本印刷は残業が多いので有名だったけど、これをいつまでも続けていていいかどうかを考えて、母親に相談したわけです。
さっきも言ったように大日本印刷は二部制でしたから、帰って寝ても昼には目が覚めてしまいます。それで尺八を習いに行きました。そこで尺八の先生になるか、尺八を作りながら演奏している人たちもありますが、そういう仕事をしたいと母親に言ったら「それはやめておきなさい」と言われた「それじゃお坊さんはどうかね」と聞いたら、「坊主ならええ」と言う。なぜええかというと、自分も若いときに尼さんになりたかった。でも親に反対されてどうしても尼さんにはなれなかったという経緯があったからでした。

 そうこうしているうちに、母方の遠い親で会社を経営している会長が山田無文老の信者だったので「同じ学校へ行くんな無文老師の大学へ行け」と言われて花園大学へ行くことになりました。それまでは高野山に上るつもりでいました。その会長が言うのに「無文老師の法話と、仏教的には因縁を徹底的に調べろ。経済的には金利の研究をしろ。それだけでいい」と言われました。こうして花園大学には、その会長の会社で勤めをしながら通いました。昼間学校へ行って朝と晩に仕事をする。会社の寮の一室に入れてもらって住んでいました結構この寮が広かったから、朝はここの庭掃除と便所掃除をして、夜は事務所の女の子が帰ったあとの電話番をしておれということでした。こうしてその会社の寮に住みながら、学校へ通って大学を卒業したのが昭和四十四年でした。卒業してまず入っだのが、大阪の釜ケ崎の愛隣地区でした。やはり宗教家なのだから、この人たちのために何か救済活動をしなければならない、と思いながら入りましたが、何も組織を持っていないから動きようがなかった。そのうえ大阪万博の前の年でしたから、仕事がいっぱいくるのでみんな困ってはいない。一年数か月そこにいて、いろんな仕事を覚えました。その後釜ケ畸を出て東京の方に行きました。

 東京は山谷に行きました。これが昭和四十六年でした。当時は赤軍派というのが革命を起こすといって盛んに活動していたときでした。警察は特別警戒体制をとっていました。尺八を頭陀袋に入れて歩いていたら、「ちょっと怪しいから来い」と警察に引っ張られたこともありました。頭陀袋の中から経本や尺八が出てくるので、警察から謝まられました。「お前、腹減っているだろう」って、そんなこともありました。

 しかし東京はどうも自分の肌に合わない場所でしたから退散しました。東京から歩いて帰る途中、三島まで来ところで、非常に尊敬していた山本玄峰老師がおられた龍沢寺をのぞいてみようと思い、是非入門をさせて頂けないかと長髪でリュックを担いだ姿でお願いしました。そのときの知客寮が鈴木宗忠老師だったと思います。追い出さず丁寧にお茶をたててくれて、話をしてくれました。「禅家というのはお師匠さんを見つけてそこへ入るという形になっているから、自分の知っているお寺があるんなら、まずそこへ行って弟子入りをして、それから掛搭しなさい」と言われました。それで京都へ戻り、家族の知り合いの慈氏院に入門しました。そのときの住職が御手洗義文、室号は虚心庵という人でした。この方に昭和四十六年の十月五日、達磨忌の日を選んで得度してもらいました。そのときすでに三十歳でした。これが出家の始まりです。すぐに雪安居が始まるから何にも教わらずに南禅僧堂へ行きました。袈裟の掛け方も知りませんでした。最初からよく叱られました。「一週間で嫌になったら慈氏院に戻ってくればいい」と言われてきたけれども、もう帰るところはないわけで、僧堂におらなければならない。そうこうしているうちに、昭和五十八年十一月に南虎室勝平
宗徹老師が遷化され、その百ヶ日忌を終えてから転錫を決めたわけです。
そして昭和五十九年の四月に御手洗義文老師と因縁のある倉内松堂老師の臨済寺へと転錫しました。


(つづく 続きは平成28年2月初旬に掲載予定です)