「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年1月〜】

 掲載号等  【第43号】:平成3年2月発行 

松島 瑞巌寺 平野宗浄老師

己事究明とは差別を見抜く眼
 
    
 

眼をもっと社会に向ける
 
 キリスト教や他の教団と比較したとき、私たち臨済宗の僧侶は世界に眼を向け、どんどん社会に進出し活動することが欠けていると思います。
 環境破壊問題一つを取り上げてみましても、日本を始め先進国の人々は、無駄遣いをし、のほほんと暮していますが、これは発展途上国の人々の犠牲の上に成り立っているという仕組をもっと勉強し、その差別性を反省すべきです。このままでは日本だけではなく、全世界が破壊に向っているという危惧を持ち、これではいかんと具体的に行動しなければならぬと自戒しています。
 禅には、曹源の一滴の水の話のように物を大切にし、無駄遣いをしないという素晴しい伝統がありますから、是非これを今日に生かして欲しい。節約ということは資本主義の方からいえば矛盾しているが、これをどのように一人ひとりが実践して行くかが今日の大事な課題です。
 
 
本物の社会活動へ
 禅坊主は他の事をしなくとも己事究明が総てだとよく言いますが、私はそうは思いません。
 そこで人権問題=差別問題を考えるとき種々な問題があります。例えば部落差別をはじめ身体障害者差別や民族差別は全国いたる所にあり、世界中にあります。だからこそ、そう簡単に「差別はありません」と言ってもらいたくはないのです。又、差別で1番身近で・1番厄介なのは女性差別といえます。差別問題を考え、人権を護っていくという事と、己事究明とは絶対に分けられません。
 私は人権問題の遊離した己事究明は、真の己事究明ではないと思います。また自己内の差別性を棚上げしておいて、社会活動のみにとらわれているのも私にはなっとくできません。自分自身は差別者ではないとうぬぼれている自己の心の底に差別性を自覚していくことが大切であり、それを抜きにして本当の己事究明はありえないのです。
 自分自身に差別性の自覚を持つことが大切であるが、下手をするとその自覚を自分の心中にだけに止めてしまう恐れがある。だから必然的に外に向って何らかの形で動かなければならないのです。それは日々の行動の中から自然に表れてくるものです。そういう意識が芽生えて始めて本物の社会的なはたらきといえるのです。こう思うとき、宗門人はもっと反省して差別をなくするはたらきに取り組まねばならぬと常に自戒しております。
 
 
○新たな人権問題(臓器移植と脳死)
 日本印度学仏教学会でも問題提議されました臓器移植と脳死の問題も、宗教家としてどう取り上げていくかは大問題であります。
 つまり、心臓が止ったら死ぬという従来の心臓死は、医学と一般常識とが一致し、だれにでも分かる死でした。ところが脳死判定というのは普通の人には分からず、もっぱら専門家しか分からない。となると、死というものはある特定の人の管理下におかれる恐れがあります。だれがどのような方法で死を人為的に管理するかは、ものすごく大きな問題になります。
 脳死を医学的にはっきりと個体死と断定しておきながら、その論証をきわめて曖昧にしています。具体的にいえば、脳死したと言った後でも、その死体を検査すると例えば成長ホルモンが分秘しているとか、つまり脳死判定後でも、『生きる』という兆候が少しでもあれば、その人は死んでいないと考えるのが医学の倫理性ではないでしょうか。少なくともこう考えるのが私達素人の常識であります。
 それにもう一つ臓器移植という要請のもとで脳死判定が下される場合、他から種々な圧力が入りやすくなります。つまり臓器移植する側からいえば出来るだけ早く脳死判定、いわゆる死を待っている。そこにはその人がもっと生きて欲しい、回復して欲しいという願いが吹っ飛んでしまい、早く死んで欲しいという驚くべき状況が出てくるのです。つまり、出来るだけ早い脳死判定が望まれてくるようになると、社会の中で弱者といわれる人が素早く脳死だと判定され、段々と臓器提供者の差別性が生じてくると思います。
 すでに今日国内では臓器提供者が少ないから海外へ出かけ、提供者にどんとお金を払い、現地の人々よりも優先的に臓器を提供してもらう、これは既に現地の人々から批難されています。このことはこれからもっと普遍化していく恐れがあります。つまり貧乏な人が金のために臓器を提供する、極端にいえば貧乏な家族のために我が死を提供するところまで行きかねない。そう考えていくと私は、脳死優先説は絶対に反対です。
 島根医大で親が肝臓を提供したとき大変話題になりましたが、あれも総ての親が子のために提供しなければならないのか、提供できない人々はどうなるのか、その人達の気持や将来を考えると一概に立派だとはいえない。皮肉な言い方をすれば臓器移植は科学の最先端というがそれが進むと逆に臓器提供なしで直していく医学がなおざりにされていくと思います。これは大事な点といえます。
 
 
○死刑廃止へ
 同じように生命の尊厳を宗教家として考えるとき、死刑廃止というところまで進まなければならないと思う。つまり今日冤罪で死刑にされる可能性は大変多いし、人権問題にも関わってきます。また殺された方の家族の心情も勿論考えねばならないが、殺した側の親、例の連続幼児殺しの親に対するマスコミのひどい仕打ちや、取材の仕方は人権問題であるのに、その方面はほったらかしになっています。こういう事も人間尊重の問題として我々宗教者は意識していくことが大事だと考えるのです。
 
 
○養気法のすすめ
 私は花園大学の教授から僧堂の師家へと立場が変って一つプラスになったものがあります。
 従来僧堂では白隠禅師の公案禅ばかり修行していましたが、もう一方に『夜船閑話』の中にある養生法の一つに軟酥の法。端的にいえば呼吸法つまり、現在の言葉でいえば気を養う養気法があります。白隠禅師がこの立派な修行方法を発明されていながら、今は公案ばかりで気を養うことはほとんど実行していない。私は修行僧ばかりでなく一般の人々もぜひ実行してもらいたいと思います。養気法の主旨は健康になることと、気の充足ということです。私はいまその一番良い方法を目指して自己の修養を実践していますが、それはそのまま雲衲への指導となっていくと信じています。この養気法は、雲衲が自坊に帰って住職となっても永く続けてもらいたいと願っています。
 
 
○通参のすすめ
 在家出身で僧堂に入る人が極端に少ない現在、じっくり坐禅の修行を続けるお寺の息子さんが増えて欲しいと思います。今、私のところでは僧堂を二、三年で退いたあと、大接心毎に通参するのが三人程います。これは大変嬉しいことです。この人達が永年続けてくれると、お寺の息子さん達にとって大変励みになると思います。
 同じ参禅十年でも通参と、実際に托鉢したりする僧堂での修行とは違うけれど、だからと言って、本質的にはどれだけやるかという本人の気質が大事なのです。通参では公案がつまれば、もういやだといつでも止められるのです。そこを自から励まして参禅することが素晴しい。私は通参する青年僧が多く増えて欲しいと願うばかりです。その心意気がいわゆる社会に眼を向ける強い力になると信じています。