「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年2月〜】

 掲載号等  【第45号】:平成3年7月発行 

遠州奥山 方廣寺派管長 大隠窟 大井際断老師

「老躯に鞭て専ら深恩に報ん」
 
    
 


数星庵

 どうも自分の齢の勘定がようわからんですよ。76歳だと思っていたんですが、先日弟子たちが喜寿のお祝いをしてくれましたものですから、もうそんなになるのかな、と…。とにかく大正4年2月26日生まれですから、みなさん勘定してみて下さい。

 大分の万寿寺の十五年間は忙しかった。そのあとの東海庵の十五年間も忙しかった。妙心寺は出頭が多い。法式は長くて厳しく難しい。よう絞られました。三十年間よう働きました。今は方廣寺へ移って、ここは環境がいいし、もう体力もないから、このへんで難しいことをせずにゆっくりとさせてもらおうと思っています。夜坐をしておると月と星がとてもきれいに見えますよ。京都にはない澄み切った空なんです。東西南北すべてに星が見える。こういう所は夜坐にはもってこいです。今、この隠寮の入口に何か書いて掛けたらと言われておるのですが。「数星庵」と書こうと思って居ります。「星を数えて坐る」これが私の現在の心境です。只、只……。

 私の実の祖父は、東福寺派の和尚で、大井荊叢といいます。京都、綾部市の東福寺派別格地、安国寺の住職でした。このお寺には、昔、国宝であった地蔵堂があります。今から約六百年前に上杉清子がここに日参して子供を産むことになる。この子が、足利尊氏です。いわば北朝方にたいへん縁が深いお寺なんです。その安国寺の娘さんが、京都束福寺の山内の退耕庵へと嫁いでいて、又、そこの娘さんが私の出生地、茂松寺の今の寺庭なんです。ですから私の血縁の系統とすれば北朝方になるということですが、ここ方廣寺の御開山様は後醍醐天皇の皇子ですから、南朝方ですね。南朝方の寺に、北朝方の者が住職になったわけですから、今の私の境遇には二つの異分子が入って居る訳ですが、それを何とか仲よく宥めていきたいという気持もあるんです。

 茂松寺の私の父は、大井洞雲といいます。父は梶浦逸外老師と親交がありましたし、又、梶浦老師は奧大節老師と親しいお付き合いがありました。奥老師が万寿寺に居られたとき、お弟子の大西和尚という方が、万寿寺の高崎山別院で留護して居ったのですが、その方が猿を集めて、観光地にしてしまったが為に、奧老師の御機嫌を損じて、後を継ぐ許可がでなかったんです。それで、転出されて、博多の戒壇院に入られたんです。ですから、後を継ぐ人が居なくなってしまったんですね。今の万寿寺の老師さんは、奧老師の実の甥ですが、そのころはまだ若すぎて修行中でしたし、どうしても後任がいるということで奧老師が梶浦老師に相談されたわけです。梶浦老師は、私を推薦して下さいました。奧老師はわざわざ茂松寺にお見えになられました、まあ、お見合いというか、私の顔を見に来られたんですね。それからトントン拍子に話が進みましたが、当時私は花園大学の教師をしておりましたから、僧堂に入ることも出来なくて、三年間程通参しましてから万寿寺の後任に入ったわけです。ご存じの通り、万寿寺からは、足利紫山老師、奧老師と方廣寺の住職をしておられ、私も去年の盆過ぎでしたかお話を頂き、のこのこやって来たわけです。
 
 
 
◎現成公案
 今、「禅」というものが世界的に注目される時代になりましたね。私の行くドイツもそうですが、オランダ、フランス、またアメリカ、どこも禅会が盛んに行なわれて居るようですが、我々臨済宗は遅れています。曹洞宗が盛んですよ。弟子丸さんもそうですね。公案は使わない、只管打坐でね。まあ、言葉が通じないから只管打坐の方が受入易いのでしょう。とにかく曹洞宗の禅は世界に通じていますよ。臨済宗はまだまだ遅い。何でかな?。

 曹洞宗は、法式なんかも上手だし、教化の仕方がうまいとおもいます。そういう所は、学ばなければいけませんね。臨済宗は、坐禅をするのはいいんだけれど、交際が下手っていうのかな。坐禅プラス社会性ということですね。坐禅は坐る基だから無であるけれども、坐禅を活かす為には、社会性も必要だから、いわゆる現成公案という面を大いに曹洞宗をお手本にして、我々も補って行く方向に行ってほしいと思います。

 坐る、「無」を忘れず。更に、坐る基礎から、いよいよ社会に出て働くという、平常心是道の方が足らないから、それを更に付け加える様に努力していくというのが、これからの臨済褝の世界的ないきかたではないかと思いますね。

 私もドイツへ行って接心をやっておりますが、ドイツ人の坐禅は、非常に緊張してしまって本当に無我の境地にはなかなか入れないんです。腹に力を入れよと教えるからなんでしょう、気張り過ぎてしまう所があるようですね。今回の晋山式の時は25人のドイツ人が方廣寺に来ておりました。東海庵には禅堂がありませんでしたから、ここの禅堂で初めて本式に坐らせたのですが、ここで雲水や青年僧の方達と一緒に坐禅してみて、もっとゆったりと坐らなければいけないとわかった、と言っていたそうです。
 
 
仏教では心身不二なり
 
◎身心不二

 今は、医術と倫理が問題になっていますね。何を死とするか問題なわけですが、何か、一寸早すぎると言いますか、我々は新しい医術の行きかたには反対ですね。仏教では、身心不二ですね。所が今の新しい医術は生体を解剖するとか、それを移植するとかいうことは、西洋式な身心を分離するという考え方があるから、現在の我々の気持を無視した医療が進められている様に思います。これは良くなくて、仏教は身心不二であるから、心と体は分けてはいけないので、心を無視したような生体移植等は良くないと思います。

 肉体の死だけが死ではなくて、更にもうひとつ、只、単に体を扱う医術者ではなくして、我々は心を扱う者ですから、本当の生命とは、生きると云うことはどういうことか、そこからもう一度基礎を築いていかなければならないのです。肉体が生きることだけが生きると云うことではないのですから、肉体的に生きていても、心が死んでいる人が多いわけですからね。体も生きるし、心も生きて動く。いわゆる自由精神というかね、そういう本当の心の自由、まあそれが悟りと云うんでありましょうがね、死を越えた心を手に入れる、それが本当に生きると云う事でしょうから。