「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年2月〜】

 掲載号等  【第46号】:平成3年10月発行 

美濃清泰寺 参玄洞 生駒道顕老師

「看よ観よ」
 
    
 

おやじとの出会い
 私は伊勢の生まれです。伊勢の高校を卒業し、父親の勧めもあり花園大学へと進みました。そこで霊雲院の山田無文老師にこの身をお願いをしたわけです。老師は快く受け入れて下さった。学費も出すと言って下さった。嬉しかったですね。そのころの霊雲院には学生が二十人近くおりました。
 以前、老師に世話になっていた学生がお礼を持っていったことがありましたが、老師の
「俺の建てた寺ならそのお礼を貰うかもしれないけれど、俺が建てたわけじやないから貰う筋合いはない。おれもおまえらと同じ居候の身だ。月謝は要らん。その代わりにおれと同じような生活をしなさい。おれはちょっと忙しいから、すまんけれども寺の草ひきなんぞをしてくれ。」
という言葉が、今日まで言い伝えられています。そうして、隠侍のような役もやりながら、学校を卒業させていただきました。
 
 
父親の思い出
 僧堂に掛搭する際、父親と一悶着がありました。父親は妙心僧堂の会下ですし、無文老師は祥福寺のお師家さんです。父親は私の掛搭先を、妙心寺と決めつけていました。今思えば、自分の弟子は自分の行った修行道場へやりたかったのでしょう。私はぎりぎりまで迷っていましたが、荷物に付いていた妙心寺宛ての荷札を引きちぎって、無文老師がいる祥福寺へと足を向けました。花園大学を卒業してから十八年の間、引き続きお世話になることになりました。
 途中、昭和41、2年頃に父親が(くも膜下出血)で、入院したとき一度僧堂をひいて白坊に帰ったことがありましたけれど、僧堂がどうしても忘れられず接心のたびに参禅しました。父親がなんとか復帰できた事を機に僧堂の門を再び叩きました。そのときの父親は今でも尊敬しています。普通の父親なら、もういいからうちの寺をやっていけということになるのでしょう。
寺の盆は棚経、施餓鬼と忙しいのにもかかわらず、2、3日の暫暇で僧堂へ帰らすような人でした。自坊は母親も亡くなって父親が一人だけだったのですが、帰ってこいとはいわない人でした。
 
 
おやじのこころ
 昭和49年頃に、突然老師が僧堂を引けといわれた。びっくりしました。帰れといわれても自信もないし、どうぞおいて下さいと願ったが、僧堂ばかりにいたのでは社会の空気に触れることができない。本当の坊さんになりたいのなら田舎の寺で師匠の手伝いをしなさいと言われました。それで明日帰れというのです。私も燃えていましたから、ショックでした。悔しくて悔しくて涙が止まりませんでしたよ。翌日老師から。親父宛ての手紙を預かり伊勢の寺へと向かいました。帰ってもなかなか僧堂の生活が忘れられず入制などの案内がくると欠かさず出向きました。それが楽しみで楽しみで待ち焦がれていました。
 自坊の副住ということで、父親の補佐をしていましたが、2年ほどすると無文老師が管長に出られることになり、老師から霊雲院へ戻って留守番をしなさいと連絡が入りました。嬉しかったけれど、このことにも問題がありました。檀家の人にすれば、そのまま菩提寺を継いで貰えると思っていたのが、京都へ行くと言い出したわけですから。檀家としては納得はしなかったのですが、なんとか許しを得て京都へと向かいました。
 京都では老師の晋山式の諸準備を着々と進め、ようやく晋山式も終って2ヶ月ほどした頃、千葉県に東京タワーの社長さんが、利益を社会に還元したいという意味で「青少年禅センター」という若い人達の研修道場を無文老師を総裁に迎えられて設立されていました。今度はそこへ務めるようにと言われました。
 今思えば僧堂をひかせたのは。ここでの仕事のためでもあったわけです。無文老師はそういうふうに先のことまで見通してみえる方でした。そこで4年間、指導主任で新入社員の研修に携わっていました。そこで法話などの現実的な布教のノウハウを勉強させてもいただきました。
 私はズーっと無文老師についてやってこれたわけですが、これは有り雛いことでした。その時その時には、腹に入らないこともありましたが、それでも老師のいわれるままにやってきて本当によかったと思っています。
 
 
共に生きた塾頭時代
 そうして暫くしますと、花園大学の禅塾の塾頭にきてくれないかという話が持ち上がり、そこで六年間お世話になりました。この頃は一番楽しかったですね。学生と一緒にバカをさせていただきました。若い人は本当にいいですね。その頃の学生が今日、晋山式などで会ったとき、知客寮や殿司を立派に務めている姿を見るのが楽しみです。そうした機会に再会して「塾頭さん」と声をかけられることが一番嬉しいことです。
 こうした気持ちは諸方のお師家さんにもあるのではないでしょうか。会下の人が、僧堂を覗いてくれることは嬉しいことと思います。法も大切ですが、それ以上にそうした人情的なものを大事にしていかねばいかんと思っています。そうした上に初めて法というものが受け継がれていくのではないでしょうか。この世界はどうしてもランク付けがされ、それはそれで仕方ないことかもしれないが私は共に歩んでいく姿が好きですね。育てているつもりが育てられていたと気付くことがたくさんありますからね。
 
 
こころいれ
 ここ清泰寺にお世話になって、法事に出かけることも多いわけですが、今までの坊主のワンマンショーのような法事ではなくて、檀信徒の皆さんに参加してもらうものにしていかなくてはならんと思います。その時代その時代の工夫というものがあるはずです。儀式は儀式としてしっかり残していかねばならないこともありましょうが、意味も分からず焼香をしてもらって、けむたいからと窓を開け放したりすることに気を取られている人には、どんなに高級な香を焚いても格好だけなら、おがくずとおんなじですからね。しっかりと理解してもらい心に止めてもらえるものにしていかなくては駄目です。線香臭い退屈な話でなくて、方便で「こころいれ」を教えてやってあげたいですね。褝でいう「なりきる」ためにも必要なことでしょう。
 そうしたことを導く役が導師である菩提寺の和尚であるわけです。それでこそ床の間を背にすることもできるのではないでしょうか。
 こうした工夫の中でこの清泰寺を護持していくことが、両親を始め、無文老師へのご恩返しのつもりと、務めさせていただいています。