「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年4月〜】

 掲載号等  【第57号】:平成6年11月発行 

南禅僧堂 古清軒 高山泰巌老師

「師匠と雛僧教育」
 
    
 

生い立ち、そして小僧へ
 私は、昭和4年の2月8日に、山口県の阿武郡福栄村の建仁寺派の長久寺という寺で生まれました。私より5つ上の姉、その下に長男ということで生まれました。子どもの時分から、後でどうせ修行せんといかんちゅうんで、母は何事につけ、後で困るからいまちゃんとやっとけといって厳しくやられたですね。しかし、その母親も私か7つの時に亡くなってしまいました。私か長男でしたが、母親が亡くなることとは関係なく、最初からもう寺に置くつもりはなかったようで、小僧にいついくかということは時間の問題だったんです。それで小学校の5年の時に洞春寺へ行くようになりまして、その半年ぐらい前に今の虎渓さんが弟子入りされておって、得度は一緒にして、でもわしの方が年が上だから一応兄弟子ということで、まあそれからの縁でいっしょに修行するようになりました。
 
 
師匠と小僧
 いまの和尚さん方やらを考えるとね、どのぐらい弟子のために時間を割いてやっておるのかなと思います。わしの師匠は、その当時八王子の広園寺の師家でした。いまのように交通が便利でなく、八王子まで片道一昼夜かかりましたから、行ったらもう3ヵ月は帰ってこなかった。ちょうど私が弟子入りしたのが8月でしたから、11月の開山忌までに師匠からじきじきに回向やらなんか教えてもらいました。維那は師匠はあんまり上手でなかったから、まあ一応詠み方を教える程度で、節なんかはよその人に教えてもらえなんてね。大体、よそへいって維那やらなんやらやってまわるような坊主になるなと、妙な叱り方をして教えてくれました。それから楞厳呪を習ったですね、それで開山忌のときには経柱に立って詠むというようなかっこうで。いまになって感激するのは、それらと同時に習った「宝鏡三昧」と逓代伝法仏祖の名号。それらを二人に墨で書いて、朱を入れてね、そういうことをするのはたいへんな手間だとおもうんですよ。それを一人だけでなく、二人に書いてくれた。いまでも洞春寺に残っていますよ。それをちゃんと目の前に置いて教えてもらった。師匠が洞春寺におるときにはそういう具合で、本当に懇切に教えてもらいましたね。
 
 
学校生活。そして僧堂へ
 その師匠に学校だけは行かせてもらいましたが、中学4年のときに、光海軍工廠という航空魚雷を作っているところに学徒動員でした。そこはあいまに「回天」という、人間魚雷ですねはやくいえば、そういうものも作っていたんです。そういう人間魚雷に乗る人を訓練するところがすぐ工場の近くにありましてね、戦争ってむごいものだと思っておりました。まあ動員に行きながらもなんとか山口高校に通ったのはいいが、ずっと光の海軍工廠から帰してくれないんです。それで8月の7日になって、高校に入学した者は帰ってよろしいということになった。その7日あとの8月14日に、光が全滅するぐらいの空襲を受けた、終戦の前日ですね。高校に入学できたことで、命拾いをしたと思いましたね。
 まあそれから、23年に高校卒業して洞春寺を離れて、というても師匠は昭和21年から建仁寺の管長でしたからね、その管長の隠恃をしながら、23年から26年まで京都大学に通っとったわけです。まあ京都は食料がないからよく托鉢をして、本山の方におるから本山の看板袋を借りて。
 「大本山建仁寺」と。そしたら建仁の僧堂が怒りましてね、勝手な托鉢をするなというて。それでも本山から出ておる托鉢免許証を持っているから文句あるかっていうてね。そのころ僧堂には、いまの管長さんや東京の白山道場の小池心叟老師、そして山内には月桂寺の亡くなられた松尾太年老師がおられた。まあ建仁寺は3年ほどでしたが、そうこうしているうちに寒松軒が、23年に南禅僧堂に出られた。それまでは雲龍窟といって、島田菊僊老師が管長と兼務しておられた。寒松軒が僧堂に出られて、わたしが南禅僧堂に入ったというのは、師匠が南針軒の法を守りたかったんですね。ほかのところにいくな、寒松軒のところに行けと。
 
 
洞春寺に帰る
 そのうち、師匠が29年、わたしが僧堂に入って3年目のおわりごろに亡くなりまして、それで向こうは兼務ですから、師匠の7回忌のときに無理やり洞春寺へ帰れということで帰された。洞春寺へ帰ってからは、僧堂の形を崩さんように、作務と読経、大きな禅会はやらなかったけれども来た人とは一緒に座ったり、作務をしたりしておりました。僧堂ではないけれども1対1でやりますからね、「坊さんの生活というものはこれぐらい無駄がないように、さっささっさとやっていくんですか。」などと感心したりして。
 その他には、社会的な教育委員や調停委員やらされたりしてね。まあなによりも、先々代がはじめたいまのことばでいえば養護施設、家庭に恵まれない子供を家庭の代わりに育てて、社会人としていくという施設、それを引き受けて、いまだにやっております。まあそのおかげで、そういうすべてのことが社会の勉強、僧堂にいるだけではわからない世の中のことがいっぱいあります、それをやらせていただいた。そうこうしているうちにわしに僧堂に出るようにというような事情になったわけで、それでいま修行させてもらっておるんですわ。
 
 
師匠と雛僧教育
 修行とかなんとかいうことになりますと、本当にお師匠さんやまわりの人の力ですね。それからなにより自分がなんとかやってやろうという気概ですね、そのどれ一つが欠けてもどうもうまいこといかんですね。ただ、一番大切なとにかくやってやろうという気持ちを生み出すには、まわりにどういう友達がおるかとかなんとかということで変わってきますわね。だからそういう面ではわたしは恵まれておったんじゃないかと思いますね。虎渓さんも兄弟子で私がおるから、あんなやつに負けるかということで気を張られたと思います。
 
 
小僧を育てる寺風
 最近、雛僧教育ということをいいますが、それはお師匠さんたるべきものがきちんとやっておってということが一番ですね。そして、やはり小僧さんですね、いまは寺の羅ご羅尊者が多いですけど、われわれのころは小僧でしょう。小学校ぐらいの小僧でも檀家の人が大切にしてくれておった。それは和尚を中心とする寺の寺風というものがあって、それは大きな金持ちの家でもなんでも、小さい小学校ぐらいの小僧にでも大きな座布団に座らせて、お茶を汲んできてどうぞってやるでしょう。自然に育てて下さるんですよ。そうやって、人が頭を下げてくださるんだから、というような雰囲気でですね、そういうものがだんだんなくなりかけておるような気がするんですね。まあすぐ復活せいというてもむずかしいことですが、まあこれはやっぱり伝統ですね。
 
 
薫習
 また、小僧のころのことを思い返すと、山口県は今北洪川老師が出られたり、釈宗演老師が私の先々住と仲が良かったらしくて、2度来ておられたり。それで洪川老師、それから宗演老師についた居士がおられて、鈴木大拙さんもそうですが、私らが子供のころはまだその生き残りみたいな居士がたくさんおって、師匠が広園寺から帰って来て制間の間、提唱をやっておりましてねえ。それが槐安国語ですよ。小僧で聞いたからわからんけど、それなりに言葉とかなんとか師匠が話したその断片はまだ頭の中にありますね。まあ今はとにかく教えんものは知らんでもええような学校ですけれども、あの昔の教育というか教え方ちゅうのは、いわゆる薫習ですね。あの匂いが自然に衣やなにかにくっつくという。師匠の教え方は、その薫習でしたね。
 
 
看て取れ
 もう一つは物事を看て取れということですね。そして、とにかく出来んと師匠から怒られたりなんかすることがあった。
 「日頃何見ちょるんだ。法鼓を打つんでも、先輩が打つんでもちゃんと聞いておぼえておけ。」という格好で怒られて教えなかったですね、見て取ってやれと。まあ、今の職人やらなんかでも、そういうことがやっぱり多いですねえ。あの手を取り足を取って教えられんことの方が多くて。そういうことを自然にやっておったんですねえ。
 
 
臨済宗の布教
 山田無文老師はよく葬式を悪くいっておられたけれども、それは葬式が悪いということじゃなしに、葬式ということで人が集まって下さるんだから、むしろなんかそれを利用して布教ということを考えねばということだと思いますね。まあ例えば真宗のように、ちょっと説法するとかね、それから法事の後なんかでも、今日はどういうお経を詠みましたというようなことをね。それだから、あながち葬式が、まあ葬式だけというんじゃあいかんですけどね、葬式をばかにしたら私はいかんと思います。それからあとは、やはりその寺々の、檀家さんの寺に対するニーズというものがあると思うんですね。ですから、これは布教だといって、一様には出来ないと思います。まずはそのニーズに合わせて、できることをやらんとですね。それ以外、これでなけりゃあというような一つだけというのは無理でしょうなあ。まあ仏心を広めるという大きな目的、その点だけでは統一できると思いますけど、ある程度具体的な、これでないといかんというようなことはちょっといいにくいんではないかと思います。
 臨済宗の場合、布教だとか特別なことをいう前に、ふだんの生活が一掃除二勤行というて掃除の方を先に出すんですね。いやあ、南針軒はそうだったんじゃないかと思いますね、掃除がやかましかったから。で、前の宝福寺さんとか南針軒についておられた人が寺へ行って、ああこれはさすがに南針軒流だなあ、よう掃除ができちょると、それを感心するんですね。作務にしても、百丈和尚のころには、一つの清規として作務をいれるというようになってきた。まあその伝統とはいうけれど、やっぱり寺をきれいにしてやろうということ、そういうお寺はかなり説法されておることになる訳ですね。