「不二」 過去の記事  【紹介期間:平成30年11月〜】

 掲載号等  【第62号】:平成8年9月発行 

野火止 平林僧堂 師家 
指月庵 野々村玄龍老師
 
    
 
山門法語(偈)

 
透得凌霄閣
【とうとくす、りょうじょうかく】
平林寺の住職になるというしっかりとした気持ちをもって山門をくぐる。


聯芳為啓関
【れんぼうためにかんをひらく】
立派な行績を遺された歴代の住職が今日の為に門を開いて下さったことに感謝する。


烏藤諸念寂
【うとうしょねんじゃくたり】
錫杖を置くことは、この寺に留まることを意味し、それは、気の引き締まる思いで雑念などなくなる。


香刹隔塵寰
【こうせつじんかんをへだつ】
平林寺の厳粛な空気は世間を隔ている。






晋山法語(偈)


石室芳蹤碧溜温
【せきしつのほうしょうへきりゅうあたたかなり】
平林寺開山様の残された法は、みどりしたたるような春の日の温かみがある。


威光顕露浴深恩
【いこうけんろじんおんによくす】
開山様の威光が平林寺に満ち満ちて我々子孫は大きな深恩に浴すことが出来る。


叢林普照指端月
【そうりんあまねくてらしたんのつき】
僧堂を月が普く昭らしている。


武野渓流灌法源
【ぶやのけいりゅうほうげんにそそぐ】
武蔵野を流れる野火止用水がやがて大海に流れこむように常に法源に向いって修行をしている


(晋山式当日配布されたパンフレッ卜より)





武蔵野に新緑薫る4月6日、埼玉・平林寺に晋山式を終えられたばかりの新老師をお訪ねした。


出身は在家、高校三年出家
 私は島根県大東町の田舎の農家に、六人兄弟(男五人、女一人)の三男として生まれました。両親は信仰心が厚く、毎朝お仏餉を供え、お経を読んでいました。叔父が禅宗の僧侶になり、出雲の宝積寺に住職していました。長男が昭和二十年に戦病死し、次男は小学二年生より出家し、出雲の十楽寺で小僧をしていました。終戦の年で日本国中が混乱していて、農家の後を小学校一年生になったばかりの私に継がせるのは不安に思った父は、中学生になった次男を無理に寺より帰し、後を継がせました。父は次男を帰す代わりに「うちには他に三人も男の子が居るから、大きくなったら弟子入りさせる」と約束したようです。父は私に時々坊さんになることを薦めましたが、私は坊さんが大嫌いで、バスなんかに坊さんが乗ってくると「今日は縁起が悪いぞ」と本気で思っていました。それが高校三年で出家する気になったのは不思議です。


劣等感が出家の動機
 私は小学校四年生の時から兄弟に対する劣等感を持つようになり、やがては同級生や周囲の人に対しても自信が持てなくなりました。その原因はある先生に「おまえの家の子供はみんな、何をやらせても良く出来るが、おまえだけは何をやらせてもダメだなあ!」と言われたのが始まりです。先生にしてみれば、相手は子供だし少々きつい言葉でも本人には刺激になるだろうぐらいに思っておられたと思います。それでもそんな同じような言葉を何回も浴せられると、いくらおっとりした子供でも傷つきます。私のその後の人生が、変わっていったのはその先生の言葉が要因のひとつだったと思います。特に教育者とか宗教家とか指導者的立場にある人は、自分の言葉の影響力の大きさを知るべきです。たとえ子供だからと思っても十分気を配るべきです。結局、私はそれからは絶対に兄弟と同じ道や職業を選ばないようにしたいと思いました。同じ職業を選んで大人になってからも比較されるのが嫌ですから。学校も中学だけ卒業したら早く大阪とか東京に出て、料理人になりたいと思っていました。ところが、両親がどうしても高校に行くように言うものですから仕方なしに行きました。高校に入っても劣等感は取れずに悩んでおりましたが、高校二年の時、父が「世の中で相撲と禅僧の修行程つらい修行はない」と話したのを聞いて、「修行すれば少しは強い人間になれて、この劣等感から開放されるのではないか」と思いました。これが出家をする動機となり、高校を卒業したら禅宗の修行をしたいと決心し、父に「僕坊さんになりたい」と言いました。その時父は今まで見たことのないような喜びようでした。
 すぐに十楽寺さんの紹介で、京都の龍安寺の松倉紹英師の弟子となりました。


平林僧堂へ
 昭和36年花園大学を卒業してすぐに、平林寺に掛塔しました。平林寺を選んだ理由は、大学2年の時、平林寺の老師が本山で歴住開堂をされたのを拝見し、誠に失礼な言い方ですが「老師は百姓のオヤジさんみたいで、眼が象みたいでやさしそうでいいなあ」と思って決めました。昭和50年まで白水敬山老師、その後は糸原円応老師に、昭和五54年、川崎市建長寺派寿福寺に行くまでお世話になりました。平林寺で修行中も劣等感はついてまわりましたが、次第に自分の人生に自信が持てるようになったのは、修行のたまものでしょうか。


これからの僧堂教育
 檀務だけで生活出来る寺は少なく、どうしても兼業をすることになります。兼業を考えると僧堂にも永く居ることは無理です。そうなると短期間でも基本的なものを修得させるような修行も必要です。その点平林寺は関東平野に十三万坪の山林と境内を持っており、種々雑多な作務も出来るし、又檀家も沢山有り、法要葬儀等の実践的な事も身につけることが出来ます。
平林寺は檀家の葬儀法要、会計等一切雲納がします。勿論葬儀の導師も役位が務めますし、又少なくとも三名位は出頭しますので色々な事が覚えられます。
僧堂に一年か二年位しか居れないような者にも制間中などは常住経験もさせるようにしています。現在はどこの寺でも子供が少なく、僧堂に来る者は全員寺の後継者ですので、預かる側としても責任を感じます。師匠も僧堂に1、2年も居れば、何でもやれるようになると期待をされているようで大変です。僧堂は本来の目的の他に寺院の後継者育成と、法燈の継承者を育てることも重要なのです。これが最大の問題です。これは重要で急務といっても五年や十年で出来るものではないので、その人材に出会うのは運命的にも等しいことです。何としてでも一人二人を育てたいと思います。物を大きくすることは容易ですが、人一人を育てることは大変難しいことで、一人でも育てられれば、私の師家としての仕事の八割位は、終わるような気がします。祈るような気持でおります。


青年僧へ
 禅僧の生活の中心は坐禅にあります。坐禅をしている気持ちで考え、人に接し又行動することが肝心です。坐禅もただ座布団の上で形通りに坐っているようでは役に立ちません。白隠禅師の言われるように「丹田禅」でなければならない。そこから生れる「禅定」が基本にならなければならない。恩師の敬山老師も円応老師も非常にやかましく、禅定を強調されました。その禅定を得るための基本は、呼吸法です。「大宇宙にある、新気、英気、清気、元気を鼻端より気海丹田(下腹)に静かに満たすことが肝心である。」現代的に言えば、宇宙のエネルギーでもパワーでもいい、その力強い気を丹田にこめることです。「そのこめた力を抜かないで息を吐く時は身内の邪気、邪念、煩悩、妄想、小我を静かに鼻端より放出する。」これをくり返しくり返しすると丹田に気が充実してきます。その充実した気から行動を起し又そこで総てのことを考えるようにする。
 現代人は頭にのみ力を集中して考え行動をするから、一たび行き詰まると、フラフラになります。青年僧は腹で考え、腹で行動するように心掛けてもらいたい。
 坊さんはどこまでも謙虚であるべきです。禅僧は人に対して「無心」とか「無我」を説くけれども、わりと我の強い人が多いようです。檀家の方々に対しても、廻りの人に対しても傲ることなく謙虚でありたいものです。最初にも言いましたように宗教者として、言葉一つにも気をくばり、人を傷つけない、思いやりを持って下さい。






無隠軒 小南惟精老師
(道号法諱)無隠惟精
1872〜1943
岐阜県恵那郡付知町の生まれ。早稲田大学卒業。鎌倉円覚寺、凾応宗海老師。大徳寺、川島昭隠(法諱)會聡老師に就き修行。昭隠老師の法嗣となる。後、博多大徳寺派崇福寺、伊深正眼寺、京都大徳寺に住山される。法嗣に堅州惠忍老師、梶浦逸外老師、白水敬山老師がいる。


牧牛窟 白水敬山老師
(道号法諱)敬山宗恭
1897?1975
福岡県筑紫郡春日町の生まれ。大正六年、博多聖福寺、龍淵東瀛老師に就き得度。大正十四年伊深正眼寺に掛搭。昭和三年福岡太宰府戒壇院住職となるも、再び正眼寺に掛搭。無隠惟精老師の法嗣となる。昭和十五年先住職、韜光窟峰尾大休老師の後を嗣いで平林寺第二十二世住職となる。法嗣に糸原圓應老師がいる。


放牛窟 糸原圓應老師
(道号法諱)圓應宗幸二
1926〜
島根県松江市井原町の生まれ。昭和十二年神戸市南禅寺派正法寺、臥牛軒長廻正元老師に就き得度。昭和二十年、神戸祥福寺掛搭。昭和二十五年野火止、平林寺掛搭。昭和三十二年花園大学卒業。昭和三十八年埼玉県行田市大蔵寺住職(四年間)。昭和五十年平林寺住職。平成八年退山。法嗣に野々村玄龍老師がいる。


指月庵 野々村玄龍老師
(道号法諱)玄龍雲昌
1938〜
島根県大原郡大東町の生まれ。昭和三十一年京都竜安寺松倉紹英師に就き得度。昭和三十六年平林寺掛搭。白水敬山老師、糸原圓應老師に就き修行。圓應老師の法嗣となる。昭和五十五年川崎市建長寺派寿福寺住職。平成八年平林寺住職。