オンライン不二 003 藤田師 書籍紹介 - 臨済宗青年僧の会

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オンライン不二 003 藤田師 書籍紹介

過去の不二
【オンライン不二 003号】
2022年6月14日公開

書籍紹介

『悲劇の宗政家 前田誠節臨済宗妙心寺派の近代史』
 
 藤田和敏
 



この書籍をお勧めする理由 【事務局員 木下紹胤
 

この度、藤田氏の書籍を手に取るきっかけとなったのは、花園大学に勤める方からの勧めでした。 「これは歴史的事実を述べたものであり、現在の妙心寺派がいかに形成されたのかを知るための良書」とのことでした。

書籍の内容については、著者本人から拝受した寄稿文をご覧いただきたく存じますが、私が本書をお勧めしたい理由は以下の三点です。まず一つは、明治の廃仏毀釈によって危機に立たされた当時の日本仏教界の光と闇が、ありのままに描かれているという点です。例えば『明治の禅匠』 (禅文化研究所)で取り上げられている宗匠方と異なり、前田師をはじめ日の目を見られなかった一人ひとりの禅僧の血の滲む努力が、現代の宗制の成立に大きく貢献しているということを再発見できます。

二つ目は、当時から課題となっている人材教育、僧侶の資質向上、本所のシステムなど、今に直結する問題が浮き彫りにされているという点です。これらの考察を現代に活かすことが私たちの役目であろうと思います。

三つ目は、前田誠節という一人の禅僧の生き様に、僧侶としての根本を見直すことができるという点です。寺院は毀こわされても法は毀すことができない、この一念を持って改革に邁進した前田師と同じ気概が今の自分にはあるだろうか。特に、晩年の前田師の布教伝道に対する真摯な姿には胸詰まるものがありました。

「世人は何かに下評するかは関する所にあらず、吾人は仏道のため、これ法のため、最大最善最勝最利なりと信じたることを施行したりし也、而しこうして又多数の人に代りて最劇最痛の苦しみを受けし也、一点の疚やましきことあることなし、百年の後知る者は自おのずから知らん」 (本書 一七六頁)

本書の「あとがき」に藤田氏がこの本を執筆する経緯が書かれていますが、私たち僧侶はいかに布教していけばよいかという課題に向き合う上で、本書は大いに寄与するものがあります。ぜひ多く方々に、読んでいただければ幸いと存じます。





以下は著者の藤田和敏氏から頂いたこの書籍についての紹介文です。





書籍紹介
『悲劇の宗政家 前田誠節 臨済宗妙心寺派の近代史』
 藤田和敏



現在の臨済宗各派では、 「本山」 ・ 「本所」という二つの組織によって末寺が統轄されている。現代を生きる僧侶にとっては当たり前の事実であるが、このような宗派のあり方は歴史的にどのように形成されたのであろうか。そのことを解き明かしたのが、拙著『悲劇の宗政家 前田誠節臨済宗妙心寺派の近代史』である。

禅宗各宗派にとって、 「本山」とは法系の源となる寺院のことを指す。妙心寺派であれば、開山関山慧玄を祀る開山塔と、全国の末寺に法系を張り巡らせる龍泉庵 ・ 東海庵 ・霊雲院・聖沢院の四派四本庵を擁する妙心寺こそが 「本山」である。法階稟承などの様々な宗派内の行政は、 元々は 「本山」が管轄するものであったが、明治九年(一八七六)に妙心寺派が成立し、同十二年に妙心寺派大教院(のちに教務本所、現在の宗務本所)が創設されたことによって、 「本山」から「本所」が分離して現在のあり方になった。

「本所」というものは、 まったく近代的な組織である。 「本山」が大きな権限を握る江戸時代の本末関係を当然としていた明治前期の僧侶にとって、末寺住職に平等な権利を与えた議会を組織し、 「本所」の役職者を選挙で決定していく方法は革命的なものであった。社会が大きな変化を遂げた明治時代において、議会のような近代化された宗派運営の手段を編み出すことは困難を極めたが、その難題に体当たりで立ち向かったのが前田誠節である。

本書の書名になっている宗政家とは、宗派の運営において政治的な役割を果たした僧侶という意味である。ペリーによる黒船来航から四年前の嘉永2年(1849)に生まれた前田は、幼い頃に両親と死に別れるが、妙心寺末寺である伊勢国山田の常勝寺で出家得度した後に、美濃国梅谷寺における厳しい修行を経て、妙心寺派の宗政家として頭角を現した。明治18年(1885)に制定された妙心寺派最初の宗派規則「妙心寺派憲章」の起草に関わるとともに、同十九年にまとめられた 「妙心寺派住職試験章程」の内容を策定するなど、宗派の基盤構築に主導的な役割を果たしたのである。

「妙心寺派憲章」制定に伴い、妙心寺派では定期的に議会を開催して運営方針を議論することになった。教務本所を代表する立場にあった前田は、宗派自治の確立に強烈な問題意識を抱き、改革のための議案を矢継ぎ早に提出したために、保守的な地方の議員たちと抜き差しならぬ対立を抱えることになった。 しかし、四派四本庵のうちの東海庵を拠点とする東海派の法孫であり、東海派の勢力が浸透していた尾張・美濃地方の末寺を支持基盤として固めていた前田は、抵抗する勢力と闘いながら、自らが理想とする改革の実現に向かって邁進したのである。

前田の辣腕振りは宗派外でも注目され、仏教各宗派の管長と執事で構成される仏教各宗協会の大会で議長を務めた。宗派内外で活躍する前田の動きに妙心寺派の議員たちは警戒を強め、議会において前田は厳しい批判にさらされることが多くなった。宗派運営が膠着状態に陥りつつあったこの時期に、インドで発見された仏骨(仏舎利、 「仏骨」は資料上の表記)がシャム国王チュラーロンコーンから日本に譲与されることになり、その奉迎使を前田が務めることになった。さらに、仏骨奉迎のために仏教界が連合して組織した日本大菩提会が明治三十一年(一八九八)に発足し、奉安殿である覚王殿の建設が予定されたが、参加各宗派の無責任と杜撰な運営により債務のみが累積する結果となった。会務を抱え込んだ前田は債務処理に苦慮することになり、妙心寺派の基本財産であった公債証書(現在の国債に当たる)を弁済のために不正な手段で流用し始めたのである。

覚王殿は、 紆余曲折を経て、覚王山日暹寺と名を変えて名古屋に建設されることになった。前田は、運営主体が代わった日本大菩提会に13万円余(現在の貨幣価値に直すと26億円余)に膨れ上がった債務の弁済を求めるが、全額を負担させることができず、進退窮まった。そして、 明治37年(1904)に管長に対して進退伺いを提出したのである。前田は教務本所から擯斥の処分を受けるとともに刑事告発され、同38年に重禁錮1年6ヵ月・監視6ヵ月の刑罰が言い渡された。出所後は岐阜県の正伝寺(現在は廃絶)に隠棲し、大正9年(1902)に死去している。

以上のような前田の事跡に多くの問題点が存在したことは否定できない。前田が推進した諸改革は末寺の事情を十分に顧みないものであり、その強引さが原因で議員からの抵抗を受け、失敗を操り返したのは事実である。仏骨奉迎事業への参加は莫大な債務を抱え込む結果となり、宗派財政を危機的状況に陥らせた。しかし、教育布教活動を中心に教務本所運営の枠組みを作り上げた前田の功績は公平に評価されなければならない。廃仏毀釈と上知令のために甚大な打撃を受けた明治の仏教界において、激動する時代に対応できるだけの組織や制度を整備していく辛苦には並々ならぬものがあったのではなかろうか。

現在の仏教界は、急激な人口減少とコロナ禍により従来の枠組みを見直さなければならない段階にある。妙心寺派においても、僧侶の資質向上のために研修会を義務づける動きなど、様々な改革が始まっている。このような変革期だからこそ、我々は過去の歴史、特に身近な時代である明治以降の歴史の中から明日への教訓を読み取る必要がある。






藤田和敏
『悲劇の宗政家 前田誠節 臨済宗妙心寺派の近代史』
 (2021年10月法蔵館より出版、定価1,980円〈税込〉 )






◆ プロフィール ◆
藤田和敏 氏

相国寺寺史編纂室研究員
花園大学国際禅学研究所客員研究員。

立命館大学文学部史学科卒業
京都府立大学大学院
文学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(歴史学)

著書
『 〈甲賀忍者〉の実像』(吉川弘文館、2012年)
『近世郷村の研究』 (吉川弘文館、2013年)
『近代化する金閣─日本仏教教団史講義─』 (法蔵館、2018年)

臨済宗青年僧の会(臨青)は昭和55年1月に「青年僧よ立ち上がれ、歩め」をスローガンに掲げ発足した全国組織です。
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