基調講演 マリ・クリスティーヌ |
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神さまが言う訳はない | |
私の父はイタリア系のアメリカ人、母は日本人です。私は父のおかげで今でもキリスト教の信仰者です。母は仏教徒ですから父はキリスト教徒ではない人と結婚したことで、破門されました。ローマンカトリックは非常に厳しく、異教徒と結婚すると破門されます。でも父は自分が教会に通 わなくても、子供たちの魂を救うためにと、私と妹を小児洗礼しました。その後、母もカトリックに転教し、父にもキリスト教徒に戻ってもいいことになりましたが、「カトリックのあなたは仲間で、そうではないあなたは仲間ではない、なんて神様が言う訳はない」と言い戻りませんでした。 それでも、日曜日になると母と私と妹を車に乗せ教会に連れて行き、父は家に帰って一時間待って、からまた迎えに来ました。父の宗教教育に対する責任感というのは非常に強く、私たちはキリスト教の教えの中に育ちました。 |
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「目には目を」の文化 | |
私は四歳まで祖父と祖母と一緒に日本で育ちました。お彼岸のお墓参りにも違和感がなかった。身に付いた幼児体験の影響だと感じています。キリスト教の文化には、墓参りの習慣はありません。埋葬され教会に行きます。その後お墓に行くのはその人の誕生日か、記念日などを自分で決め、お墓参りの日にしています。年に一度いけばいいくらいです。 その後ドイツに四年、それからアメリカに一年居てそのあと中東、イランでは四年近く生活しました。そして二年間のタイでの生活を経て更にまた日本語の勉強の為日本に帰ってきました。ですから生まれ育ったのが神道と仏教文化の国、それからドイツでキリスト教の文化が土台にある国でした。そうして回教徒の文化の国、それからまた仏教の文化の国に戻ってくる生活をしてきました。 国にはそれぞれ住む人の文化があり、いろいろな価値観があり考え方があります。自分のものではない、相手の持つ考え方を尊重する、尊敬して差し上げることができるかどうかが、私はとても大事だと思うのです。 回教徒の生活を体験したとき、例えば安息日には女性は外に出てはいけないとか、顔や体を隠して肌を見せてはいけないとか、とても厳しい。これが宗教でもあり文化でもあります。 兄弟がなぐり合いのけんかをしていても、お母さんは止めません。自分が人を痛い目にあわせれば自分も痛い目にあうのだということを覚えさせるために、親はそこに介入しないのです。本当に度が過ぎてしまって怪我をするような状況になってはじめて親が入るのです。 うちの両親は最初からけんかをしてはだめよとか、もし 妹が手を出しても年上のあなたの方が我慢しなさいと言われてきました。 水曜日は外に出てはいけない日なのです。なぜかというとこの日は見せしめの日。例えば物を盗んだ人がいたとすると、盗んだ手を切り取るという罰を多勢の前で見せるのです。これは父から聞いた話で私は見たことはありませんが、「目には目を」というすごく原始的な教えだと思うのです。 |
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仏教は大人の宗教 | |
私は仏教の世界は教えのレベルがとても高い、大人の宗教だなという感じがします。それは仏教国では、物事良い悪いと片付けるのではなく、一つのことをいかに一所懸命やっているかどうか、自分の外のものに対しての信仰ではなく、自分自身が悟ることによって、達するものとされているからだと思います。 例えば回教徒の文化を見ていましても、悪いことをしたらやり返される。物を盗ったら手を切り取られる。とても原始的だと思います。 回教よりも少し成長した形がキリスト教でしょうか。それはなぜかというと十個のルールがあるからです。「自分は神である、だからほかの神を信仰してはいけない」十戒の中でそういって神はモーゼに告げているのですが、その次に、日曜日の礼拝にはちゃんと行かなくてはいけないとか、両親は尊敬しなくてはいけない、人を羨んではいけないとか、相手の奥さんやご主人を自分のものにしようとしてはいけない、うそをついてはいけない、こういうルールを守れば神様のもとに戻れるという、すごく分かりやすい教えです。 |
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セミの殻文化 | |
文明というものが一つの成長を遂げたときに現れてくるいろんな考え方がありますが、今日本はどうかというと、私がよく使わせていただく言葉は、日本の仏教、日本のものの考え方、宗教観、文化も含めて、『セミの殻文化』なのです。それはなぜかといいますと、昔は中身がしっかりあったものが、その中身が抜けてしまった状態。日常の中で、例えば「いただきます」というのはなぜ言うのでしょうか。そして誰に言っているのでしょうか。それは山の頂に存在する最も大きな太陽の力に対して、山よりも下にある自分が手を合わせて言う言葉ですね。 日本人は謙遜です。「すてきな奥様ですね」というと「いや、愚妻です」とか息子さんのことを「愚息」ですという。欧米人ですと自分が相手よりいい待遇であったりすると、とてもハッピーなのです。私にはこんなすばらしい家族がいて、こんなにすばらしい妻がいて、夫がいてという、自分の思うことをみんな言葉に出してみんなに伝えることが人間として素直でいいこと。でも日本人は、自分の方がより上であることを、相手に伝えることは相手方に羨む気持ちを持たせることになる。相手にとって失礼。だから謙遜をして自分がどんなに幸せでもどんなにいいことがあっても、そんなことはありませんという。 その謙遜というのはおそらく仏教的な発想からきたものだと思うのです。今日本に残っているのはマナーの形としてしか残っていません。そういう例が日本にはたくさんあります。例えば熨斗袋にのしがついていますね。なぜ袋にのしがついているか。それを知る人は少ないようです。 昔はアワビというのはとても貴重なもので、神様にお供えするものであったり、これを剥き身にして干してあるいは伸して保存食にしたり、非常に大事な栄養源でもあって、これを神様にお供えするものとしてつくられていたものが、行事に使われるようになってきたことを知らないのですね。 そのように日本の文化で、昔意義があったものが、形だけ残って意義が伝わらなくなってしまいました。 |
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「難しいですよ」ではだめ | |
お宅は何宗ですかと聞かれて答えられる人はいても、その中で、ではどうすればあなたは悟れるのですか、どうすればあなたの魂救われるのですか、そういうと分からないというのです。分からないのにどうして信仰ができるのですか、どういう行動をとればあなたがその永遠の幸せにひたることができるのですかといわれた問いに、答えられた覚えがありません。それが現実だと思うのです。 うちには神棚もありますし仏様もいますし、十字架も置いてありますが、月に一回和尚さんは祥月命日の日に来てくれます。ところがお経のあと経中の言葉について質問しますと、説明はしてくださるのですけれども分かりずらいのです。「これは難しいですよ」、と言って下さるけれども、難しいですよじゃ、だめだと思うのです。 例えば般若心経を読まれて、その意味を分からなくても、お爺ちゃんお婆ちゃんがそばで読んでいれば子供は自然に覚えます。意味がわからなくてもお経を唱えていることで浮かばれるというのですけど私はちょっと疑問に感じます。この元の意味、自分がなぜこれを唱えることで悟ることができるのか、自分の魂を高めることができるのか、理由なく、無心にするというのが私は一番怖いことじゃないかと思うのです。 この前飯山市でお会いしたお坊さんが、私に浄土宗の、「浄土」という意味についてお話いただきました「それは水の浄化ということで、キリスト教の洗礼のときに使われる水とよく似ています。例えば自分が川の水として流れているときに、汚れた人が来て手を洗って自分が汚されても、水は文句いいません。その水が汚れて捨てられても文句いいません。それでもまた水は浄化され戻ってきてまた同じことを繰り返して、それでも水は文句いいません。これが浄土宗の根本的な考え方の一つです。」 じゃあ自分自身も水のようになれるかというと、なかなかなれませんし難しいことです。自分がいやな思いをすれば文句も言いたいし、黙してされるがままにしていることも難しい。でもそういうストーリーを伝えていただいて、自分がこういうことを目指して生きれば、何とか自分自身を高めることができるのかもしれないという、ヒントを与えてくれたと思うのです。キリスト教の神父様の中でもミサの中で、よくお話をされます。キリストはこういうことのために言ってくれたのだと、それを私たちが理解できる現代の言葉で、私たちがどう生きていけばいいのかというヒントを伝えてくださる。そのことが私たちにとってみれば一つの開けた道になるのです。 |
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前の日のものですけど | |
私がお嫁に来たときに、家には仏壇と神棚、庭にはお稲荷さんがあって、私は十字架を持って来ましたから、枕もとに十字架、台所にも十字架をおいてあります。 ただ仏壇をお守りするといっても始めのうちどうやったらいいのかわかりませんでした。 十三日は夫の母の命日なのでお坊さんがお経を読みにみえます。その日はいつも鍵はかけずに、お布施を仏壇の下に置いておくと、坊さんが勝手に入ってきてお経を上げて帰っていきます。でも最初、知らない男の人が来て私のベッドルームの下で音を出していたわけですから本当にびっくりしました。 それでもお坊さんがくる前の日には必ずきれいなお花を入れておかなければいけないとか、とにかく毎日お花を見てだめになってきたら取り替えるとか、毎日お茶とお水を取り替える、お位 牌も月に一回くらいは拭きます。 私が最も大変だったのが、毎朝一番のお水と一番に入れたお茶と炊き立てのご飯を仏様に上げなければいけないことでした。「うちでは朝食はご飯ではないから」というと、「朝早く起きてご炊かなければだめ」と言われました。「何で生きている私たちがご飯食べないのに、全然味わうことの出来ない人のために炊かなければいけないのか」聞きましたら、「こうやって今私たちが存在できるのは、ご先祖様が努力してこられたからある、だからちゃんとやらなければだめ」と言われました。 とにかくこのようにいろいろ教えていただいた義母は江戸っ子で信仰深く、毎月どこかのお参りに行っていました。お墓参りも毎月欠かしません。それが私の入門だったのです。 和尚さんに「毎日新しいご飯でなくてはいけないでしょうか、私たちも食べないときもあるもので」と聞きましたら、「トーストを上げるうちもありますから大丈夫(笑声)」と言われました。それで安心してご飯のないときはトーストを、前日のご飯のときは、「これは前の日のものです」といって上げております。 私はもちろんお経は上げられませんから、どうしたらいいか聞きましたら、「どうぞご冥福を祈りますとか、成仏しますようにとか、そういう魂が浮かばれるようなことを言ってあげれば大丈夫です」と言われました。だから仏壇を通 りときに、「こんにちは」とか「今日は一日、お天気がよかったですね」とか声をかけるようにしています。 同じ部屋に神棚もありますがそこはそこでまた一日の日には榊を取り替えなければいけません。でもそんなことばかりやっているうちに自分の信仰ってどこへ行ってしまうのかしらと、今度は神父様に相談しました。「あなたはカトリックですから信仰はカトリックですればいいけれど、ご主人の先祖、宗教、これは信仰しているものだからちゃんと尊敬してあげなければいけない。そうすることによってあなたも彼のことも彼の先祖のことも皆大事に出来る。自分の魂の信仰はキリスト教のイエスキリストであればいい。そう言われて私はすごくほっとしました。 |
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まずは守り天使から | |
私はいまいろいろな問題の中で、いまの子供たちに教育が出来ない一番大きな理由というのは、自分たちに宗教がなく、また教えられたこともないからだと思います。自分がすがれるものがないから子供に伝えることも出来ないのではないでしょうか。私がとてもラッキーだったのは、小さいときからキリスト教という宗教の中で育ってきたことです。みんな自分には守り天使というのがいて、神様に頼まなければならないほど大事じゃないとき、簡単な願い事はこの天使に、もうちょっと重くなるとマリア様、本当に大変なときに神様なのです。 そういう意味で、どこか自分の心の中にもう一つの声というのが必ずあります。この声と自分が関わることですごく気持ちが安らぐことがあるのです。 信仰というのは自分の宗教に対する考え方、解釈だと思うのです。日本では神頼みと言いますけれども、これは本当に深刻なときだけのことで、何も他には頼れない、最後の頼りという感覚ですね。普段自分の生活の中にいつも神様が存在してくれていて、ふれあっているというのとは違うのです。 |
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模範になりなさい | |
私たちはいま、タイの山岳民族の教育支援をボランティア活動としてやっているのですが、仏教と対面 することがとても多いのです。いまタイなどのアジアで、女の子たちの人身売買の理由は宗教がもとになっています。タイの仏教というのはご存知のように原始仏教ですね。ですから自分が悟ろうとしたり仏様になるためには男でなければだめなんです。 女性は自分たちが女性として生まれてきた一番の理由は、前世に悪いことをしたからだというのです。じゃあこの世ではどうすればいいかというと、一所懸命親孝行をしてお坊さんの托鉢にたくさんのものを寄付したり、お寺さんもちゃんとお守りしたり、お参りしたりすることによって、仏様にはなれないまでも、来世は男として生まれて、今度は浮かばれる、ということを信じているのです。だから子供たちは、親孝行のため自分が売られていくことに関して、親御さんたちも含めそれほど反発もないのです。だからといって私たちがそこにずかずか入って行って、「男女平等は当たり前の世界になっている、何で女の子が男より価値が低くて売られていくのですか」私たちがそう言ってみたところで始まる話ではないのです。 では私たちに何が出来るかというと、教育を受けさせることによって、自分たちでこれはちょっと違うのじゃないの、価値観を変えようという考え方にたどり着けるようにお手伝いすることしか出来ないのです。そのために教育支援をしています。 更にその教育期間中も家族は食べていかなければいけません。親御さんたちには、お子さんたちが学校教育をちゃんと受けられるようになれば、結局一生あなたたちを支えることが出来るようになる。だからこっちの道を選択した方がいいですよ、という説得もボランティア活動としてやっています。人の価値観とか、宗教観とか、考え方については誰にも強制的に変える権利はないのですけれど、いろいろな価値を示すことで、影響力を与えることが出来ると思うのです。 私は若いころシスターになりたくてキリスト教の学校へ行っていました。でも神父さんは、「結婚して子供を育て、その家族がとってもすてきと思われれば、それがいいカトリックの家族です。その模範になりなさい。そうして神様にお勤めすることも出来るのですよ」といわれました。しかし、仏教徒の方と結婚しましたからちょっとまた違いましたけれど…。 私たち一人一人が自分の信仰する宗教は自分たちの生き方でしか伝えることは出来ないと思います。すばらしいお話、説教を聞いたからといってそれで信仰するようになるわけではなくて、何か自分の心の至らないところに対して穴を埋めてくださるようなすばらしい力を認めることで、ああ、私はこういう信仰を持ってよかったということになるのだと思います。 |
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「うん、別に」 | |
少し前、子供が子供を殺し、さらに驚いたことに、殺したあとその子の首を切り落とすという残虐な事件がありました。これは日本人の行動というものからは想像できません。 外からの日本人像は、いつもスマイル、とても優しい。けっして凶暴ではない。むしろ消極的で遠慮深い、そういう日本人像からすると、その子のやったことというのは何かとても根深く、残念ながら宗教感までも変わってきているのではないかという気がしました。 以前は人の目を見ればわかるとか、背中を見て感じ、言葉に出さなくても行間で理解してきました。言うこともそのままではなく、相手が言っていないことにも重みや意味を持たせようとします。私自身、これが好き、これが嫌い、これはいい、良くないと、はっきり意思表示することが大事であるという価値観の中で育ってきました。ですからいわゆる回りまわった言い方をすることは好きではありません。私が何か言っても、日本の方は、「こう言うけど、きっとこう思っているのじゃないかな」「いえそうじゃなくて本当に結構です」と言っても、相手は私が遠慮していると勘ぐられたりします。 私達夫婦の会話の中でも、夫が何か気に入らないようなので、「どうしたの、何かいやなことがあったの」「うん、別 に」っていうのです。「本当に何もないの」というと、「何もないよ」というのです。でも何かあると思い、それで根掘り葉掘り聞きだそうとして、それでたいていけんかになります。そこまで行ってやっと何で怒っているかということが分かったときには、「いやならいやだったと言えばいいのに」という話になるのです。 これでやっと分かったのは、日本人の「何でもない」というのはうそだということです。 |
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いま恋をしているのかな | |
日本には言葉を使わないコミュニケーションが存在しました。日本の文化を欧米では『ペーパー・アンド・ウッド』だといわれます。家はもちろん木造建築で、障子とか襖一枚ですね。日本人はこのおかげで、お互いの気持ちや気配を察すること出来る民族なのです。 例えばこちらの部屋で舅と姑がいらして、襖を隔てて隣の六畳に若夫婦が寝ているとして、そのときにクスンと泣いている声が聞こえてくると姑の方は、「いや今日はちょっと嫁いびりしすぎたかな」、隣の部屋で子供が勉強している、紙と鉛筆のかさかさした音がしていて、しばらくして静かになると、「いま恋をしているのかな」とかいろいろな気持ちを想像させてくれる物理的な背景がありましたね 。 長屋に住んでいれば隣の人が何を食べているかもにおいですぐ分かるし、隣で夫婦喧嘩の最中、子供が「おばちゃーん」ていって駆け込んできたら、「喧嘩が終わるまでこっちへいらっしゃい」といってくれる人がいたりとか、壁があるようでないところで育ってきた文化なんです。人の気持ちを察することがとても上手なのです。 アメリカでは、「いらっしゃいませ、コーヒーですかコカコーラですか」といわれて、「いや結構です」といったら何も出てきません。日本人に「何も構わないでくれ」といっても、お茶は出てくるのです。逆に本当にお腹いっぱいで、もう何も飲みたくないと思っても、日本人は出されたものは飲まないと失礼だと思ってしまうのです。また、たくさんご馳走作っていただいて、食べないと失礼だなと思って、無理しても食べますよね。それで体が悪くなってしまったりすることがあるのですが、そういうことで相手の気持ちを察することでのやり取りが、もう何百年、何千年と続いてきたのだと思います。 俳句とか短歌とか日本の生んでいる文化を見ても、すべて行間の文化であったり香りの文化であったり、すべて間接的ですね。ストレートなものというのは日本の文化には存在しなかったのです。 『行間』、私はすごく好きな言葉ですけれども、例えば公案一つにしても、『片手の音』というのはあり得ませんね。だけど何となく「うん」とうなずけるものがあります。このうなずけるものを言葉で説明しなさいと言われてもこれは説明できないから公案になるわけですね。 こういう文化が長く続いている人たちに、「これ好きですか」「好きです」「「あなたはこれ嫌いですか」「はい嫌いです」ということは言えなくなってしまうのです。どう言えばいいのか悪いのか分からないけれども、相手がいいようにとればそれでいいということです。ですから非常に日本人は、近代社会にあってコミュニケーションが下手な民族ということが言えると思うのです。 宗教や哲学を伝えるのには、言葉がどんな役割を持つか、私はとても大きな課題だと思うのです。「うちの夫はちゃんと天国に行けるのでしょうか」とか、「仏様になれるのでしょうか」と言われたときに、キリスト教の場合は非常に明解です。「あなたが一生懸命お祈りしてあげれば、必ず天国まで行かれますよ」と言ってくれるのです。そういう救いの手がちゃんと言葉としてあります。ですからとても導かれやすい。子供にとっても、例えば死ぬ 場面を漫画でやるときには、天使の羽をつけて飛ばせます。天使として飛べるのは、いい人だけで、悪いことをすれば尻尾に角がついていて、真っ赤な姿をして槍を持った悪魔が待っている所へ行かなければなりません。キリスト教はそういうふうにとてもビジュアル、分かりやすいと思います。 |
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『尊厳』とは何でしょう | |
道徳教育は学校の中で、という人がいますが、私はとんでもないと思うのです。道徳教育とかボランティア教育などは、家でするものであって学校に頼むものではないと思うのです。道徳というのは自分の回りの、親も含め、大人の生活や考え方というものを見て、聞いて、感じて、その人たちから何がいいか、悪いかを人間として教わるべきものであって、教科書のなかで教わるものではないと思うのです。社会学とか、法律などは学校で是非学んで欲しいけど道徳は観念だと思います。人の尊厳を大切に出来る子供たちが育つかどうかなのです。 『尊厳』とは何でしょう。子供が朝起きて「ママおはよう」と言ったときに、自分は忙しいからといって無視する、その子供の尊厳を無視していることになります。なぜなら立派な一個の人間です。それが「おはよう」といったのにそれに答えようとしなかったからです。 赤ちゃんがぎゃーっと泣いたときはおしっこで濡れているかお腹がすいているからか分かりません。「いいのよ泣かせておけば」そういって泣かせておくのがよいこともありますが、ずーっとそのままにしておくと「私は抱かれるのに値しない人間かしら」ということを赤ちゃんのときから身体で覚えてしまいます。そうすると自分の尊厳、自分の価値というものを分からないで育つ子供が出来てくると思います。「まだ子供だから分からない」ではなくて、子供というのはその点では非常に敏感なのです。 私は自分の子供に伝えたいことを多くの子供たちにも話そうと思って、高校生にエイズの話と、性行為の話、性感染しないようにするにはどうしたよいかとか、コンドームの話をすることがあります。子供たちは生ぬ るい話を聞きたいのではないのです。自分の尊厳、自分をどう守るべきか、自分が大切であることをまず認識しないと、他人を大切にすることもできないのです。 今の若い方は自分をどうやって大切に出来るかということが分からないまま大人になるのです。それはなぜかというと、親が大切にしすぎてしまって、免疫力が全くなく育ててしまうからなのです。タイ国に昔の日本を見る 最近の日本の学生さんは、お互いの外見、格好いいかどうか、そんな話題でしか会話のやり取りがないようですけど、どうしようも出来ない身体のことを取り上げて、それを相手にぶつけるのは私はすごく失礼だと思うのです。 もしアメリカの学校で人の容姿だとか身体の欠点を口に出した時、まず先生が止めてみんなの前で怒りつけます。言ったその子が恥をかくことによって、クラスの子たちもこういうことを言ってはいけないのだということに気がつきます。だけど今の日本でそれの出来る勇気ある先生はほとんどいません。学生の方が圧倒的に力があって、逆に先生がやり込められ、自分が何も言えないような状態になってしまいます。こんな日本、大丈夫なのかしらと思います。 昔の日本というものをいつも私はタイで見るのです。タイでは、子供たちが先生方の座っているテーブルのところに行って、何か用事のあるときは必ず膝まづきます。なぜかというと自分の頭が、先生の頭より高くなってはいけないからです。 それから子供の頭には神様がいるから頭に手をやることはいけません。自分の頭より上のものは神のものという認識があるのです。 私たちが村に訪れ、帰りにはいつも見送りをしてくれるのですが、村中の人たちが糸を手に巻いて結んでくれるのです。なぜそんなことをするかというと、おまじないを唱えて、この人が無事に帰れますように、幸せな人生を送れますように、子宝に恵まれますように、お金持ちになれますようにとか、その村人の思いが私たち対する贈り物になるのです。 こういう習慣というものは、私たちがタイから帰ってきた後も、その人たちの思いが私たちと繋がっている思いがします。たいていはどこかへ出かけていって帰ってくると、そこでもう思い出は切れてしまうわけですけれども、名残とか、自分がそこで何を感じ、味わったか、すばらしい方と出会えてこういう話をしたということが思い出されて、そういうことで人間の繋がりというものがあるのですね。 |
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地域密着型のお寺さんに | |
この間、近くのお寺さんに、ある研修会の分科会に是非お堂を使わせていただきたい、音楽会をやらせていただきたいとお願いしましたら、断られました。「檀家の為にあるお寺ですから何日にイベント、催しをするということでお貸ししてから、その日をお葬式に使わなければならないことになると困る。だからそういう前もってのお約束はできない」と言われました。とてもまじめなお坊さんだと思いますがで、檀家さんだけを向いている方なんですね。 そういう意味で寺子屋じゃないですけれども、私は社会を向いた形でのお寺さんが大事だと思うのです。私たちキリスト教は世界中どこへ行っても教会には駆け込めます。どこの教会も私たちの家なのです。日本人だってどこのお寺さんだって自分のお寺であるという認識を誰もが持てて、そうして何かあってもなくても駆け込んで何となくお話を聞かせて頂くことができたり、心が安らぐような、そんな地域密着型のお寺さんや神社だったらいいですね。自分たちの信仰しているその建物自体が自分たちの安らぎの場であるというふうに思われるように、いかに地域社会の中に根付いていくか、町づくり、地域づくりだと思うのです。 衣を着て歩かれているところに出会っても「お坊さんこんにちは」と気持ちよく言える地域社会をつくって行くことがとても大事だと思います。 本当にご清聴ありがとうございました。(拍手) |